ラストエンペラー・愛新覚羅溥儀の離宮 溥儀東行宮 - The Abandoned Imperial Villa of the Last Emperor in Dandong -
それを何で知ったのか、今となっては覚えていないが少なくとも意外にもインターネットではなかった。それだけは覚えている。ラストエンペラー・愛新覚羅溥儀の離宮 溥儀東行宮。この時世話になったガイドは、丹東生まれ担当育ち、北朝鮮へも年に何回も仕事として足を運ぶ男性だった。そんな彼も「こんな場所今まで知らなかった!」と驚いていた。当時2015年。廃墟化したこの建物の周りには近隣のご老人方が集い音楽をかけては踊り...
うつろいゆく都市・大連 -文化台を散策する-
日本統治下の情景に憶いを馳せつつ、文化台の散策を続ける。日露戦争後の1905年から1945年の終戦まで、日本が統治した大連。嘗ての日本人街が全て、真新しい高層ビルで埋め尽くされる日も、遠くないのかもしれない。スクラップ&ビルドを繰り返し、大連に限らず、亜細亜は今後も終わりのない発展を遂げていくだろう。新たな光を生み、新たな影を生み、終わりのない絶望と共に。...
うつろいゆく都市・大連 -文化台に残る日本人街の痕跡-
興亡盛衰。高台に並ぶ一戸建ての住宅。大連を代表する景勝地として知られる老虎灘へ向かう解放路沿いの高台にも、嘗ての日本人街が存在している。それが文化台だ。中国の中央政府が着手した「東北振興」政策。それは古き良き大連の景観を次々と破壊していく事となる。…ヤギ?この時、2015年5月。二度目の中国、初めての日本人街に触れる旅に鼓動の高鳴りを隠せなかった。今思えば、不用意に道端に叩き出されたゴミ、家具が、...
うつろいゆく大都市・大連 -消え去るロシア人街-
此処も、時と共に消えるのか。大連駅の北側に位置する、旧ロシア街。帝政ロシア時代の行政区跡地で、多くのロシア人が住んだことからそう呼ばれている。ロシア風情街の一番奥のロータリーのど真ん中に構えるは、満州資源館。当初はこの付近を建築したロシアの会社である東清鉄道事務所が1902年に初代の大連市役所となった。そして日本統治後の1907年に東京から移転した満鉄の本社となり、満鉄の本社が1908年に現在の魯迅路に移転後...
うつろいゆく大都市・大連
遼寧省の先端、渤海に突き出るクチバシのように位置する都市・大連。遼寧省では省都の瀋陽市に次ぐ大都市である。北東アジア国際港運センターとして急速に発展を遂げており、北の香港とも呼ばれている。帝政ロシア時代の行政区跡地で多くのロシア人が住んでいた歴史、そして満洲国領でもあった大連は、独特の雰囲気の町並みだ。ここ、旧大和ホテルこと大連賓館は100年の歴史を持つ古き良きホテルだ。(実際に泊まったけど、歴史...
中国で一番危険な街?!東莞(ドンガン)にある廃れの極みのショッピングモール、華南MALL。そういえば2013年に行ってた。
ふと思い出し。行った時刻も時刻だったので薄暗い写真しかないしなと思ったけど一応記事に残す。タクシーの運転手に罵倒されたり明らかにバスの停留所じゃない意味不明の場所に放り投げ出されたり色々ありましたがぬるりと辿り着いた華南MALL。当時インターネットを賑わせたゴーストショッピングモール。ちょっと近場に行く用事があったので行こうと目論んだのでした。外観を見るや否や、同志と共に「意外と生きてるね」。“生きて...
満州国は黄金郷の夢を見たか 2
「俺も行くから君も行け、狭い日本にゃ住み飽きた。海の彼方にゃ支那がある、支那にゃ四億の民が待つ。」大正から昭和にかけて日本全国青年の満州大陸への憧れの血潮を咲かせた革命歌。大志を抱き満州へ渡った若者たちが、どれだけいた事だろう。当時日本は米国から石油・屑鉄、工作機械などを買入れて備蓄するための決済手段として「金」が必要だった。朝鮮北部の山岳地帯には金鉱の埋蔵量が多かった為、大企業の日本鉱業や中企業...
満州国は黄金郷の夢を見たか
日本で満洲と呼ばれる地域は、満洲国の建てられた地域全体を指す事が多い。中国東北地方にある遼寧省、吉林省、黒竜江省の3省と、内モンゴル自治区の東部を範囲とする。とある場所に、満州時代の金鉱山の選鉱所の跡がある。現在辺りは開発が進み、古い街並は取り壊され真新しい高層ビルが立ち並びつつある。古くの主要都市から新しい場所へ、都市機能を移行しようとしているのだ。...
喪鷹窩 肆 - 東莞東江水泥廠 -
まがふようもの律林蹐櫃東莞東江水泥廠。中国南部にあるこの廃墟と化したセメント工場は、1988年に運転開始したものだった。その時代で最新の油圧機械垂直窯や機器施設を兼ね揃え、コンクリートの生産量は年間44000トンに達したという。しかし約10年で企業経営困難に陥り巨額の負債を抱える事となる。2004年には工場は閉鎖、以後廃墟となる。友人が偶然見た中国(香港?)映画のロケ地ともなっていた為、そういったものにも活用さ...
赤坎鎮 4
堤西路旧民居(欧陸風景一条街)。赤坎鎮は、広東省の文物保護単位(指定文化財)にもなっている。堤西路の建物は1920年代から1930年代にかけて米国より帰国した華僑人らによって建てられた。帰国した華僑人が海外で見てきた建物を模して建てたのだ。建築材料は海外から香港経由で輸入したらしい。潭江には上埠橋と下埠橋という橋があり下埠橋を境に東側を堤東、西側を堤西と言う。観光客は少なく、のんびりと街中を歩き回り、建築...
赤坎鎮 3
赤坎鎮、全体的に煤けた味のある建築物が密集する街である。裏道に入るとより一層煤けていて、歩いているだけで気持ちがほっと落ち着いて来る。メインストリートの川に沿った街並も美しいけれど、深みのある下町の方がやはり、惹かれるものがある。道々にはマスクをし箒で掃き掃除をするおばちゃんがいるけれど、全然綺麗になっていない。奇声をあげながら大きな道の左右めいっぱいふらふらと突き進む頭がこったんにおっさんとか。...
赤坎鎮 2
碉楼の街並みが残るこの古鎮の一角に、赤坎影視城という映画の舞台となった場所がある。既存の街を改修して19世紀末から20世紀初の街並みを再現し、撮影に利用したようだ。香港映画のロケ地にも赤坎鎮はなっている。此方は20元を払い見学出来る。でも、やっぱり映画舞台として手を加えられた建築物より、生きたナマの赤坎鎮の方が断然魅力を感じるな。[ 続 ]...
赤坎鎮 1
明らかに酒臭いバイタクのおっちゃんの後ろに、ヘルメットを渡される事なく乗り暫し風を切る。舗装されていない道路は土煙が舞い、交通量の多い道路では思わず咳き込みそうになる。畦道や人気の無い道は、気持ちがいいのだけど。ふらり、赤坎鎮と云う街へ着いた。腹はすっかり空きっ腹だった筈なのに、たった一杯の豆腐花のみで、胃袋が満足してしまった。何だろう、炒飯老麺点心排骨、肉肉しく油ぎった全力のカロリーを摂取したか...
開平碉楼 窮
干戈彙飛去 遊子の安寧天楼に在り人が去りし今も尚、村々に根付くその楼閣。ただただに、ただただに在り続ける。楼閣の歴史は、古いかと思いきや比較的新しい。清朝末期(アヘン戦争(1840〜1842年)後)黒人奴隷が廃止されていく時代背景下にあった。アメリカ、カナダの西部大開発に伴い、ゴールドラッシュと大陸横断鉄道の建造に大量の労働力を必要とするようになり、黒人奴隷に代わる廉価な労働力を求めた。同時期、開平地区で...
開平碉楼 拾
眠れる机器人邀撃つ鵝はひよりひよ東和村にある、1918年に建てられた望楼。形が机器人(ロボット)に似ているので「机器人楼(ロボット楼)」と言われているとの事。村はのんびりとしており、お年寄りの姿が多く目立った。青梗菜が大量に天日干しされている光景は、なかなかに威圧感がある。鶏も犬も、何処も放し飼い。ついでにガチョウものんきに歩き回っていた。[ 続 ]...
開平の街で 弐
何もない、喧噪離れた畑ばかりが続く片田舎。世界遺産があると云うのに本当に人がいない。開平西南部、潭江の上流に位置する蜆岡鎮。頭の中がいすずのトラックのテーマソングに支配される…自分の地元もほとほと何もない場所だけど、流石にここには負ける、けど、「何もないからこそ、何もあるんだよ」と、いつも思っている。真の豊かさとは、相反する物者が表裏一体のコインみたいになって出来ているみたいだ。夕飯は店も悉く閉ま...
開平の街で 壱
楼閣の隣に人々の生活。路地裏にもじゃりと迷い込むと、地元の小さいながら何でもぎっしり揃っていそうな売店、その前にでっかいひよこと鶏の中間位のぴよぴよの群れ。可愛いなぁ…としゃがんで見ていると、店内の中国人達が何故かすんごいこっち見て笑っている。いいじゃないか可愛いんだよ。仔猫がぴよぴよにいたずらしようも、数の差と体の大きさとで勝てないらしい。結局ぴよぴよの残りの餌をショモショモ食べていた。向かい側...
開平碉楼 漆
亖眸は地を越え山を越え時を越え1920年に建てられた匪賊の監視用の更楼。強亜村の方氏一族と華僑が共同出資をして建築した。1−3階は食堂と居住部、4階5階は見張り台。探照灯、銃器類、サイレン等が完備されていたと云う。建築当初は古渓楼と云う名称で呼ばれていた。村からぽつんと離れた所に建っており、役目を終えた今でも佇み続けている。[ 続 ]...
開平碉楼 伍
忘らるる坤霊を歴覧すお腹空いたな…でも食堂もないな…道ばたで売ってるゆで卵は大丈夫だろうけどお腹壊したらやばいしな…。非常食にと買っておいたパンを齧りぽくぽく歩いていたら、前方からちょこちょことおじさんがやってきた。「あそこにも楼閣があるよ」と言っているみたいだ。前住碉楼、岐岭村大楼。現存する望楼は1833棟と言われている。何故この地に望楼が次々と建てられたか。それはまた、別な機会に。[ 続 ]...
開平碉楼 肆
丹華の塔は瑣霧の向こうに「開平版ピサの斜塔」と呼ばれているらしい、通称「斜楼」。周りの村々、現地の人間でも知らない人は割と多い。観光地からも、雑踏な街からも離れ、地元の人間しか通らないような細道をバイタクの後ろに乗り走る。ヘルメットなんて用意されていない。夕暮れ近い心地よい風。そのまま、カメラを掲げ、走り去る侭にシャッターを切りながら。[ 続 ]...
新年快樂!
新年快樂!中国や華僑圏では31日から春節(旧正月)を迎えます。そんなわけで、開平碉楼、公開です。にょこにょこアップしていきます。(頭隠れず…尻丸出し…なわけはない…)[ 続 ]...