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SATIAN/39 -頽廃放浪記-

廃墟/旧共産圏/未承認国家/国内外の”世界の果て”へ。ヒトノココロノスキマをキリトル頽廃放浪記。

収容所、回春寮

2014
19


暗くぽっかり顰ましく、穴はひらけて日は巡る。
ホラアナに放り込まれたように、此の世からのサヨナラ橋の上。




平安時代末期、元暦2年治承・寿永の乱の戦いの一つ屋島の戦いの後源義経の船が長島に吹き寄せられ、武蔵坊弁慶が船を引き越した地であるという伝説がある瀬戸内海の島、長島
大正時代は島内の殆どが山林で、中部より西側に水田が点在し約20世帯余りが住んでいた。ボラ敷網が有名だったが1960年頃から衰退し、代わって鴻島との間で牡蠣の養殖が盛んになった。
ちなみに瀬戸内海の牡蠣が、私は一番好きだったりする。


この穏やかで平和な島に、1927年日本初の国立ハンセン病療養所である国立療養所長島愛生園が設置された。
村有地や民有地のほとんどが国に買収され、従来からの島民はいなくなった。収容人員400名を目標にして1930年に療養所が完成したが、予定を超えて1943年には2,000人以上が収容されていた。


また1938年には大阪府から公立らい療養所(外島保養院)が長島に移転し、1941年に国に移管され国立療養所邑久光明園となっている。こちらには最盛期で1,000名の患者が収容されていた。


この2つの療養所の施設として、病棟、患者・職員の住宅、作業場、慰安・娯楽施設、看護学校などが建設された。また、以前からの農耕地が患者の農園となった。水道水は本土の吉井川から水道管で送られている。本土からわずか200mの距離にありながらハンセン病への差別・誤解によって隔絶されていたが、全長185mの邑久長島大橋が1988年5月9日に開通して本土と陸続きになった。


1996年のらい予防法改正によって患者の入所は義務ではなくなったが、長期間の隔離によって出所は困難になっており、実質患者達の終焉の地になっていると言っても他言ではないだろう。
故郷に戻れなかった遺骨も多いと聞いた。





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この島に、回春寮と呼ばれる建物跡がある。
回春…?
名前からは想像も付かないだろう。
ここは、収容所だった。





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長島に隔離されたハンセン病患者がまず収容されたのがここ、回春寮である。
長島愛生園に入所する前に、ゴザの上に所持品を全て並べさせられ園が不要と判断した物品(懐中電灯・カメラ等)を取り上げられ、その他の所持品は着ていた衣服とともにホルマリン消毒されてから返品された。



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現金は園の保管金として通帳に入れられ、代わりに園内でのみ使用可能な園内通用票と呼ばれるブリキの貨幣を渡された。
通常の現金を手元に残させない事で、逃亡を防止したのだ。



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患者は衣服を脱ぎ、クレゾールの入った“消毒風呂”に入れられる。
入所させられる迄の一週間、無理矢理消毒されるのだ。



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この収容所の中で、社会との隔絶を意識した人は少なくない。



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私は常々思うのだが、絶望というものは、救いのないものでは決して無いものだと思う。
どんな絶望に立ち阻まれても、そのど真ん中には必ず希望があるからだ。希望というものは、常々絶望のど真ん中にある。
けれど。
ここは、絶望を超えた、暗い暗い光の見えないホラアナのような場所ではないだろうか。
と。

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