北の国から2015 〜極東亜細亜北朝鮮、知られざる旧満州の遺産・水豊ダム〜 북조선 File.05
北朝鮮。
隣国の住人である我々にとっても、身近なようで身近ではない、謎多き絶対君主制国家。
此処に、知られざる旧満州の遺産がある。
古くより朝鮮半島・中国大陸・満洲の接点として重要な役割を果たしていた、鴨緑江。
その鴨緑江に沿って中国・丹東の中心街から車を走らせ約2時間半、牧歌的景色をぼんやり眺めながらひたすら北東へ向かうと、突然開けた視界のその先に巨大な壁が現れる。

水豊ダム。
朝鮮半島が日本の統治下であった1937年、満州国と朝鮮の電力確保の為建設された。日本が旧満州、朝鮮半島に残した最大の遺産のひとつだがその存在は余りに知られていない。
実際、「こんなところに来たいと言った人は、今まで中国人でもひとりもいない。存在は知っていたが私も実際に見るのは初めてだ。ましてや日本人のあなたがこのダムを知っていた事にとても驚いた」と現地の方に言われる程マイナーな存在だ。

総工費は約5億円。この金額は同時代に構想されていた「東京・下関間新幹線」に匹敵する巨額であり、その費用は当時朝鮮半島でも一大重化学企業であった朝鮮窒素肥料(日窒・現在のチッソ:事業会社としてはJNC)が全額負担し、太平洋戦争の泥沼化の中、1944年3月、水豊水力発電所(発電能力:60万kW)と共に竣工した。
この発電規模は当時の世界最大級であり1940年当時の日本国内の水力発電規模280万kWと比較してもその大きさは容易に比較できる。7基の発電機は各々約10万kWの発電能力を持っていたが、当時世界最大級の能力であり、製造を受注した東京芝浦電気(現在の東芝)は製造のために新工場を建設したという。
1945年8月9日、ソ連軍(赤軍)侵攻により、7基の発電機のうち5基を略奪されてしまう。
その後も朝鮮戦争で米軍の雷撃や空爆などの攻撃で一時発電能力が激減し広域に渡って停電した事もあったが、ダム本体は堅牢であり大きな損傷を受けることなく戦後復興、現在に至る。
竣工から60年経った今も北朝鮮の重要なエネルギー源のひとつとなっている。


どうやら2009年頃まで、ダムの北朝鮮側に金日成主席の肖像画が飾られていたらしい。中国側からも肉眼ではっきりと確認出来る程大きな肖像がは残念ながら現在では撤去され、代わりに北朝鮮側の山の斜面に金正恩第一書記を称える言葉が大きく掲げられている。

北朝鮮の軍人たちが、対岸から終始私たちを監視している。
他の監視所より、配備数が多い。
北朝鮮は国章や紙幣のデザインに、この水豊ダムをモチーフとして使っている。

国民達は、水豊ダムの歴史を果たして知っているのだろうか…
旧満州が建設した日本の近代遺産だと知ったら…どんな想いを抱くのだろうか…。

(そして右にあるトンネル?が非常に気になります。)
旧満州の遺産。
その響きだけは素晴らしいが、そこには暗部の歴史もある。
残留住民への圧力、労働者の大量動員と現場の劣悪な労働環境の実態は、凄惨たるものがある。
一軒につき50人程が共に暮す飯場は木の板の壁、トタン屋根。冬は寒さが厳しく夏はとことん暑い。
栄養環境も劣悪で、トウモロコシの粉や窩頭(トウモロコシ饅頭)、餅(ビン。小麦粉を練って焼いたお焼きのようなもの。中国の家庭料理)等で一回の食事につき一個しか配給されなかった。
僅かな賃金(それも現金ではなく、ガラ票)の為冬でも綿入れの服を着ることが出来ず、麻袋を纏いなんとか寒さをしのぐ。履物は地下足袋で、当然乍ら靴下もない。足は紫色に腫れ、身体には霜が降りる様だったと言う。
病気や怪我をしてもロクな治療は受けられず発疹チスフ、赤痢、天然痘、回帰熱、アメーバー赤痢などの伝染病が蔓延。現在中国では水豊ダム建設時の病死者の数を約5000名と推定している。
遺産は、一概にも賛美は出来ないものだ。
異国の地に眠る日本の隠された歴史に目を落とすと、また新たな視点で自国を、諸外国を見つめる事が出来るかもしれない。