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SATIAN/39 -廃墟の影片-

廃墟/旧ソ連/未承認国家/国内外の”世界の果て”へ。ヒトノココロノスキマをキリトル頽廃放浪記。

破壊されたパルチザン支隊記念モニュメント - Monument to the 1st Split Partisan Detachment -

2018
31



パルチザン。
正式名称、ユーゴスラビア人民解放軍およびパルチザン部隊。
第二次世界大戦時のユーゴスラビアにおける、枢軸国の支配に抵抗した共産主義者主体の勢力の事だ。
パルチザンはユーゴスラビア共産党率いる人民解放戦線の軍であり、その最高意思決定機関はユーゴスラビア人民解放反ファシスト会議(AVNOJ)であり、ヨシップ・ブロズ・チトーを最高指導者とした。
パルチザンという名前からか、どうしてもゲリラ勢力が想起されるが彼らのゲリラ的な性質は最初の3年間だけだった。
1944年の終わり頃にはパルチザンの兵士の数は65万人におよび、4つの方面軍、52の師団を持つ軍隊組織となっていた。
1945年4月にはパルチザンの兵士は80万人を数えるようになり、この時代のパルチザンは「人民解放軍」と呼ばれる事が多い。



20180529_spomenik_abandoned_4.jpg



この破壊されたモニュメントは、この都市の若きパルチザン支隊を記念したモニュメントだ。
1941年4月、ナチス・ドイツのユーゴスラビア侵攻に伴いこの都市はイタリアに占領され、一ヶ月後には正式に併合された。
イタリアの支配は市民の強い反発を招き、人口の3割がチトー率いるパルチザンに加わった。
このモニュメントはクロアチアのデザイナー、ヴューコ・ボンバールダリ(Vuko Bombardelli)によってデザインされた。(…名前の読みに自信がないので、間違いがあったら是非ご指摘お願いします)
当時の姿は寝姿ではなく、直立したまっすぐなものである。



Vuko-Bombardelli.jpg



高さ17mのモニュメントは1961年8月14日、処刑場跡に作られた。
気持ちの良い小高い丘の、一番てっぺんがまさか処刑場跡だったとは。



20180529_spomenik_abandoned_2.jpg



気持ちの良い丘だが、確かに行くまでの道のりは目立たず地味かもしれない。



20180529_spomenik_abandoned_11.jpg



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今では草木が邪魔をしているが、昔は街を見下ろし街から見上げたらそこに見える街に寄り添うように存在したモニュメントだった。



20180529_spomenik_abandoned_9.jpg



失われた人々の記憶に、敬意を表するものは言葉以外だとこうしたモニュメントくらいしかないのかもしれない。
観光客、退役軍人および地元住民のための重要な文化的かつ歴史的ランドマークだった。破壊された今も、そうであるとは考えにくいが…。
ギリシャの影響を受けた遺構などが残っているこの都市。残念ながらゆっくりと見ている時間もなかった。

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