3.11から10年… 2013年被災地を初めて取材した時の話し2 - The story when the disaster area was photographed for the first time in Fukushima 2013 -
2021
14
続・極々至極個人的な事柄。
前回の続き。
3.11から10年… 2013年被災地を初めて取材した時の話し1
- The story when the disaster area was photographed for the first time in Fukushima 2013 -
原子力発電所周辺を後にした私たちは、双葉町や大熊町を見て回った。



自分たちの現実の延長線上にある悲劇でしかない景色がそこにあった。
言葉も出なかった。

この頃は、常磐線がここを通る日など二度と来ないと思っていた。
時は流れ去年2020年、全線開通となった。いつか乗りたいとは思う。

あの日初めて見た常磐線の駅は大野駅だった。

見て回った駅全て、自転車がその侭放置されていたが、数年後場所によっては撤去されていた。
今は恐らく全て撤去されているのではないだろうか。
何だかんだと、年に一度は赴いていたのだが、去年はコロナウイルスの事もあり出向かなかった。
今年はどうなるだろうか、まだ未定である。

『大熊に必ず戻る』
『みんなで帰る』
と書かれた伝言板。
胸が締め付けられた。
3.11のあの時、自分の地元がもしかしたら人が住めなくなるかもしれないという不安が過った。
東京、千葉で賃貸を管理する友人に、もしもの時があった時の家族の受け入れ先を探しておいて欲しいと伝えていた。
そんな事を思い出した…。

街を眺めていても、現実感がなかった。


『地球にやさしいエネルギー原子力』
この看板は今も残っているのだろうか。



大野駅に置かれていた山盛りのドッグフード。

定期的に誰かが置いていたものなのだろうか。

そうこうしていると、雪がちらちら降ってきた。
一瞬で止んでしまったが。
地震のあったあの日、地元では確か雪が降っていた。

2013年12月、各所に積まれるフレコンバッグの数はまだまだ少なかった。
一年、二年、三年と…時が経てば経つ程その数は増えても減る事は決してない。

我が地元福島市にも汚染土などがたっぷり詰まったフレコンバッグの仮置き場が信夫山にあった。
(今も仮置き場なのだろうか…最新の状況が分からない)
一般市民が気軽に足を運ぶ憩いの場の目に見えるところにそのような物体があるという非現実的日常。
しかしそれに異論をわざわざ唱えようとする者は少ない気がした。
世界は静かに確実に狂いながらもそれでも平然平凡な日常は淡々と過ぎていく。
これが今の“平和”の姿なのだろう。

福島県の各所に線量計が設置された。
地元にも勿論設置された。

校庭に残る偶蹄類の足跡。

土を掘り返し餌を探した痕跡などもあった。
車で走行中大きな真っ黒い猪?猪豚?を見たが、歩いている時出会さなくて本当によかったと思う。

『原子力 明るい未来の エネルギー』

今となっては余りにも有名になったこの標語も、現在ではゲートから取り外されてしまった。
6号線からすぐに見える位置にあったからこそ、都合が悪かったのだろう。
福島第一原子力発電所は大熊町と双葉町とにまたがる形で立地していた。
双葉町は原子炉増設の機運を高める目的で標語を町民から公募した。
当時小学6年生だった双葉町出身の大沼氏が学校の宿題で考案したこの標語が採用された。

『原発と共に歩んだ結果…』
「誰が書いたんだろうね」
「分からないけど、無念さが凄く伝わってくる」

これらを残したのも、実は大沼氏だった事を知ったのは数年後。
巡り巡って大沼氏と繋がり実際会う事が出来たのも、現代社会のインターネットの力だなと感じた。
ハフポスト:
「原子力明るい未来のエネルギー」原発PR看板を展示へ。これまでの経緯は?

この頃の双葉町は、全くの手付かずだった。
最後に訪れた時は、嘗て住んでいた人々が帰る事を諦め家を更地にしていく、
そんな光景が多く見られた。

傾いた鳥居と神社の前で思わず足を止める。
暫く呆然と見つめた侭だった。
絶妙なこのバランス、奇妙な美しさすら感じてしまうのが怖い。



自分たち以外誰もいなかった。
民間警備の車の巡回も当時はまだなかった。
時折パトカーの姿だけは見掛けたがそれだけだった。










取材1日目の最後、海の方へ向かった。

建物はあっても、扉が抜けていたり、窓ガラスが割れていたり、津波が通り過ぎた痕跡が生々しく残っていた。

白い壁に覆われた真っ黒なフレコンバッグ。
翌年訪れた時、その数が予想以上に膨れ上がっている事に驚いた。

このフレコンバッグに詰まっている物は当然放射能で汚染された様々な塵だ。
除染廃棄物がみっちり詰まったこのバッグ、放射能を遮断する効果など当然ない。
故に劣化も激しいと聞いた。その管理は余りにもずさんだ。
線量計を近づけると当然……。
>
目を疑った現場、すぐ撮った 除染廃棄物は川へ流れた?
(この記事の個人的に何が一番戦慄かって泥まみれになったカメラが……)








「波の音も、空の色も、変わらないのにね」


「今日はそろそろ撤収しようか」
長い一日だった。なんだかどっと疲れた。
最後、一台の車が目に留まった。

「フジツボがびっしりくっ付いてる…」
「って事はこれ、流された車じゃないって事?」
「たぶん。津波で逆に海の底から運ばれてきた車なんじゃないかな…」



南相馬のビジネスホテルへチェックイン後、K氏と共に食堂へ入った。
T氏は風邪を引き熱が出たらしく、コンビニで揚げ物などのジャンクな食べ物を買い込み布団に転がっていた。
風邪薬を買いに行こうか聞いたがいらないとの事。とことん不摂生な男であった。
食堂は屋台村が集まる一角にあった。伊達鳥の炭火焼丼、染み渡る美味しさ。
K氏が注文した親子丼も美味しそうだった。
明日もまた封鎖された6号線の先へ行く。
明日の取材先の話しをしながらT氏の事も心配だったので早めにホテルへ戻った。

二日目以降の話しは、また落ち着いた頃にでも、出来れば今年中にしたためようと思う。
ところで4月より、江戸川区にてこんな展示が開催される。
もやい展 2021TOKYO
<公式サイトより>
もやい……それは荒縄の結び それが転じて協働作業を意味します。
福島原発事故がもたらした分断を 我々はどう修復し、
後世にその災禍を伝えていけるのか?
「もやい展」は多ジャンルアートの協働で
発見と、考察と、語りの場を提供し 福島を語り紡ぎます。
震災から丸10年となる2021年春、江戸川区タワーホール船堀で逢いましょう。
開催概要
名 称
もやい展2021東京+白崎映美&東北6県ろ~るショー!!
会 期
2021年4月1日-4月8日
会 場
タワーホール船堀
●もやい展2021東京+ステージパフォーマンス/1F展示ホール
●白崎映美&東北6県ろ~るショー!!/5F大ホール
チケット
●大ホールLIVE 大人¥3500(¥4000)/学生¥1000(¥1200)
●アート展示無料!
●ステージパフォーマンス無料!
当方が尊敬して止まない写真家・中筋純氏が主宰するこの展示。
中筋氏は廃墟を趣味とする者の間では有名な人物である。
2007年10月産業遺構としてのチェルノブイリを取材開始するも、
放射能汚染にて22年後もなお沈黙を続ける都市空間に衝撃を受け、その後6度に渡り訪問、数々の作品を残す。
2011年の福島原発事故後には被災町の許可を得て無人と化した街々の発する静かなメッセージを
季節の変化に寄り添って記録している。
その詩的な写真表現はドキュメンタリー写真を超越した一葉の美しい絵画のようでもある。(公式サイトより)
ちなみに当方が使用してる広角レンズは、中筋氏から譲って頂いた物だ。
私はこの家宝を手に旧共産圏各国を巡っている。
くじけそうな時はいつも氏の勇気を思い出し闘志を燃やすのである。
またも余談だかこちらの会場タワーホール船堀は前に住んでいた場所の近くだったりする。懐かしい。
台風の中暴風雨に晒されながら友人の家まで歩いたり家に帰りたくないから徘徊し回って職務質問されたり
クリシュナの寺院で音楽だけでキマりそうになったり初めてカエルを食べたりおばけに追いかけられたり
ヤバイ誘拐犯みたいなバンに遭遇したりストーカーに遭ったり変質者に遭遇したり
まぁ江戸川区には色々と青臭い思い出が詰まっている。
…そんな事はどうでもいい、激しく話しが逸れた。
もやい展、必見である。
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